時は戦国
石田三成率いる西軍八万五千――
徳川家康が率いる東軍七万五千――

だが、優勢と思われた西軍が、小早川秀秋の裏切りによって大敗。父と共に西軍に加勢していた真田幸村は、上田城にて徳川軍の足止めに成功したものの、敗戦の将となった。
ここに天下分け目の関ヶ原の戦いは終わりをつげる――。
慶長五年(けいちょうごねん) 西暦1600年9月15日の事だった。

首謀者と同様、幸村と父・昌幸にも死罪が言い渡されたが、東軍に味方し、戦功をあげた兄・信幸と猛将本田忠勝の助命嘆願により蟄居処分(ちっきょしょぶん)という寛大な処置となる
 幸村は十数名の家臣と共に紀伊の国、九度山(くどやま)へ配流(はいる)となった――